石屋の猫が犬を研究

ふくろう


石なのに
みみずくのような鋭い目

これも、幸せを呼ぶふくろうが
10年ほど前のことだが、日本の伝統芸能の世界に「守・破・離」という言葉があることを知った。
この言葉は芸道習得過程を示す表現なのであるが、もとは茶道の江戸千家流の祖である川上不白がいった言葉だという。
「守」は師匠について教程通りに教えられ、習得した芸をしっかり身につけて守っている段階。
「破」はそれにとらわれないで自分の芸を発展させ、創造性を働かせるようになった段階。
「離」はそれらを超越して白由奔放に芸を演じ、しかも芸の本道にははずれていない入神の芸境の段階であるという。
しかも年齢でいうならば、60歳まではひたすら「守」であり、「破」も「離」も牛ホの坂を超えてからのことと覚悟あるべきであるという。
これを知ってやっと永年の疑問を晴らすことができたのである。
芸の道は厳しくて遠い。
そして基本技術習得段階が恐ろしく永いのである。
これがプロの本質というものなのだろう。
万事が即効主義の今の世相に、このことが全てに当てはまるとは思えないが、画家はデッサンに時間をかけ、歌手は発声練習を繰り返し行ない、相撲は四股、鉄砲によって足腰を鍛える。
基本にどれだけ時間とエネルギーを投資するかが、その道で大成するかしないかの分かれ道になるのではないのだろうか。
芸能人たちの世界を見ていても、付け焼き刃の芸は、μ時は受けてもやがては忘れられてしまう。
基本を守ることは、平凡のなかに非凡を追及することである。
日本の世界に誇る鉢植えの世界でも「水やり三年」などという言葉があるが、盆樹の生命を維持するための最小限の基本作業でも、一人前になるにはそれだけの経験と工夫がいるということである。
だから、見る人を感嘆させるような名品を作り出す人達の技術は、何段階にもわたる基本過程に気の遠くなるような時間と労力を投入した集積によるものなのである。
しかも日本の世界に誇る鉢植えは生き物なのだから、その努力には終わりがない。
「道や遠し」である。
こうした観点からわが日本の世界に誇る鉢植え歴を振り返ってみると、「守・破・離」の逆コースを辿っていることを思い知らされる。
例えば「根張り・立ち上がり・幹筋・枝分かれ・葉作り」という日本の世界に誇る鉢植え作りの基本過程についても、どこかに技術的な手抜かりがあって、その対応が後手に回ってしまう。
これが年数はたっていても風格に乏しい、締まりのない作品になってしまう所以である。
日本の世界に誇る鉢植え技術のプロとアマの差はここにあったのだと、今さら分かってみても詮無いことだが、永年手塩にかけ愛着に満ちた駄物日本の世界に誇る鉢植えたちに囲まれて、道楽を満喫している毎日である。

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