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この花なんのはな


この花なんのはな

「素人鉢植え家のために」という一文の奪瀞鷲弍」漁馨塵書いている。
「鉢植えに対する最も気の利いたらしい批評は、自然にまか喰蓬跡隧栢,麦し、婁天姦す蕎となるものを、警く喝し凄の患擢遣めて、針金をからみつけ、肥料を加減して、崎形児的な生涯を込甚」レ齢るものであって、裏の歪曲これよワ甚しいものはないと言皐鋤隷ろう」「こ拠はしかし、西洋十八、九世紀のいわゆる自然主義風想が、我々に輸入されて、充分潤化されず、醇化されずに終ったものの名残りにすぎないのである。
生まのままの自然が決して、書うが如く華稲の生涯を完うしてはいないことを、この考えは見落しているのである。
たとえば、言うすべての樋物が穣子として好ましき条件の地に播かれ、好ましき粂件の下に育てられるであろうか。
或るものは石地に落ち、或るものは心なき勤物の足下に踏みにじら拠る。
'否、大多款は期待された条件に出遼わずして、闇から闇に葬られ去って、我々が美櫛名木として仰ぐ ところのものは、いわゆる七を七十倍もした淘汰の機会を潜りぬけて来て、辛うじて安住の地を見出したところのものである」「事実は厳として右のごとき場含、一粒の種子を、一本の薗を、自然のあらゆる荒々しい影響から守ワ育てる我々のいとなみは、何故に誹静されねばならないのだろう」宅樹石■所収] この能勢氏の言葉は、いわゆる愛盆家の心理をよく代弁している、といえよう。
つまり能勢氏は、鉢植えはいじめなのではない暗逆に、淘汰のきびしい自然の粂件のなかから、人の手にうつして、愛情をもって育て、美嵐名木に仕立てあげるもので、それは、むしろ、植物愛なのであるーと、反論されているのだ。
ところで、『大言海』(『言海』の増補改訂版)によると、ドングリは橡栗の音便訛だといいます。
以下を紹介すると.「古名はツルバミ。
轢の実、形円く尖りてひとつみの栗の如し。
熟すれば黄褐色にして大さ六七分あり、実の本に椋あって実の半を包む。
古は此殻を煮て染料とし、つるぱみ色といヘリ…」。
もちろん、ドングリは染料だけでなく、縄文遺跡からよく出土するように_太古は食糧の大切な一部を形成していました。
その大半が炭水化物ということと、アク抜きが大変ということで、つい最近まで全くかえりみられることなく見過ごされてきましたが、最近の研究によると、アクの主成分であるタンニンやサボニンに、実は動脈硬化防止や抗衰老などの薬効のあることが知られてきました。
一見、原始的で野蛮に見えた古代食が、実は老」化防止の健康食品だったわけです。
それにつけても、木ものと私たちの生活が稀薄になってきている現在、「どんぐリコロコロどんぐり子、お池にはまってさあ大変、ドジョ ウが出て来てこんにちは……」の童謡も、いつしか消えてしまうのではないかと思うと、一抹の哀切を感じます。

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