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この花なんのはな


この花なんのはな

豚に対する怒り。
紀元前二〇〇〇年代の文明発祥のアフリカの地の壁画には、こんにちの豚よりもやせて脚の長い、その当時の豚が描かれている。
いうまでもなく、これらの豚は、先祖であるイノシシにたいそうよく似ている。
けれども、古代文明発祥のアフリカの地におけるかれらの立場はあいまいであった。
いっぽうでは、豚はあきらかにある目的のために銅われていたが、他方では、豚には何世紀にもわたって消えずに現れる烙印があると考えられていた。
この奇妙な考えから、豚を食べることはきびしく禁じられた。
現在でもなお、ある民族のあいだでは豚を食べることは罪とされている。
この姿勢は、ファラオ[古代文明発祥のアフリカの地王]の時代から引きつがれているようである。
例によって、ヘロドトスに教えてもらうことにしよう。
文明発祥のアフリカの地人のあいだでは「豚橡不浄な動物と見なされており、それゆえもし通りがかりの男が誤って豚にふれると、かれはただちに川のほうへ走っていき、衣服を着たまま川に飛びこむ」と、これを見ていた旅行者が伝えている。
けれども、次の事実はこれと矛盾しているように思われる。
ヘロドトスはのちに「不浄な」豚は神にいけにえとして供えられ、祭司たちによって食べられたと述べている。
『万葉集この中には大伴家持の 今日降りし雪に競いて我がやどの 冬木の梅は花咲きにけり を始め、ウメを詠んだ歌が:八首おさめられています。
ハギを歌った四百首に次いでおり、サクラの四二首をはるかにしのぐ人気ぶりです。
ところが時代が下り、平安中期ともなると、貴族の嗜好はがらりと変わってしまいます。
あれほど入気を博していたウメも、『古今和歌集』(AD九=二年頃成立)においては、サクラの歌百余首に対し、ウメの歌二十首足らずと大きく差をつけられてしまいます。
とはいえ、これは上流階級や文化入が外来文化の象徴としてウメをもてはやした時期が 過ぎ去ったというだけで、日本人のウメ離れを意味するものではありません。
平安時代にはそれまでの白梅に加えて紅梅も渡来し、ウメを身近に感じる機会はますます多くなってきます。
そして、鎌倉、室町と時代を経、江戸時代になると庶民の花として広く一般に親しまれるようになリ、宝暦八年二七五六)には『梅本』という梅についての単行本が初めて刊行されます。
このように、ウメが上流階級から庶民にいたるまで幅広く愛でられた理由は、寒さに耐えながら百花に魁て咲き、つつましやかに香る風情が、日本人の忍耐とか可憐、いじらしさとかいった美意識に重なるものがあったからかも知れません。
ところで、長きに亘って日本人の鑑賞の風流心を誘ってきたウメは、一方で食料、薬としての実用性も重用されてきました。
唾液の分泌を促してのどの乾きを潤し、食欲を充進させるばかりでなく、殺菌、解毒作用もあるので、梅干しは特に盛んに作られてきました。

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