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絵日記


絵日記のこえ

灌水のヨ的と要点を知ろう。
水掛け三年。
普から,氷掛け三年事という言葉があるように、一人前の潅水ができるようになるには、かなりの習練が必要とさ忙ております。
どうも我が国には,石の上にも三年とかいうように、やたらに三年とか八隼とかいう言葉が出てきますが、これは比瞼ですからそのことははなしの外におくとして、潅水とははたしてそんなに難しいものなのか。
あるいはもっと簡単にみてよいものなのかも一考の余地があると思います。

わたし自身も、三卜甲ほとの隼月を鉢植えに課しんでおりますが、現ていませんし、また初心者であっても、基本概念さえ誤らなければ、今日からでも80点位の潅水はできるものだというのが結論だと思っております。
潅水は.用土の種類や大きさ、樹種や樹齢、環堀や培幾方法などが極めて複雑に作用しますから、その方法に完壁さを求めること嵐体所詮無理なことかも知れません。
その反面、作業自体完壁でなくても、鉢植え自体がほぼ満足に近い生育をしめすならば、それほ及第生ないし優等生の潅水ということができます。
しかし現実に多くの愛好者の会をみる眼り、先生の方は別として、多るようです。
これはプロに較べ時間的制約のあることも考えられますが、最大のものは概念に誤りがあるからで、このことは購習会などで多くの方々と接するとき、痛切に感じられるところです。
例えば、水が多いことが根腐れに通ずるなどというのは、誤りの中でも罪深いものといわなけれぱなりません。
ここでは八○点から九〇点を回指す潅水をめぐって、その概要を述べたいと思います。
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また、戦前まで静岡県・原の植松氏宅には参勤交代の途中に大名が立ち寄って観賞したと伝えられる赤松の日本の世界に誇る鉢植えが多数あったという。
しかし、そうした赤松は今日いう「日本の世界に誇る鉢植え」と同日に論じられない魁偉なものが多いことも事実であろう。
幕末から明治にかけて文人たちが好んだ樹種として、茉莉花・仏手柑・赤松・黒松などがあり、中国趣味への傾斜もさることながら、赤松の存在は無視できない。
また、いわゆる文人日本の世界に誇る鉢植えが定着した明治期の関西では、樹種として赤松が最も好まれるようになり、黒松・シンパク・柘榴・楓・樫柳・落葉松・蟻梅・花梨・木瓜・梅・海巣などがこれに次いだ。
明治後期以後は日本の世界に誇る鉢植えの中心が東京へ移り、特に五葉松・蝦夷松・錦松が全盛となって赤松はほとんど忘れぢれたのでしょう。
数奇」の真相 明治期に関西で赤松が人気のトップを占めたのには、文人の伝統とともに当時の陳列の様式や趣味家層とも深い関係がある。
座敷陳列が主で、料亭などを借リ切る形で行なわれ、あるいは寺社を借リて盛大に開かれた。
また、数奇者も大金持や政府高官・貴族・僧侶などが主体であり、彼らは直接的な金力の誇示よりも「佗」の伝統に従って誰でもが入手可能な赤松を第一としたのであろう。
現在でもそうだが、赤松は日本の山野、それも里近い野山に自生品があり、山採りが容易にできる。
そして、培養・婆姿の技術もいまだ確立していない当時としては、いわゆる癖せづくりによって神寂びた樹姿を鉢上に現わし、それと高価な書画骨董などを取り合わせ、また花物・実物などを配して教養から来る漢詩等の「みたて」を楽しんだものと思われる。

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